ベテラン塾講師ニシオカの日記

塾のみならず、プライベートなことも記しています。

名古屋の塾を思い出しました

1998年、私が25歳のとき、愛知県で塾講師になりました。

最初はアルバイト採用。

担当科目は小・中の数学(算数)・理科。

配属先は当知校と太平通校、、、今でも地名覚えています。

しばらく勤務して分かったのは、その2つの校舎はつぶれかけだったということ。

また、そこの生徒たちは荒れていました。

きつく叱っても全く響かないと先輩講師がよく嘆いていました。

 

そんな問題校での私の記憶をたどってみます。

当知校では社員並みのクラスを担当することになりました。

文系科目担当のY先生(社員)と理系科目担当のわたし。

 

個別クラスでは、全く話せない小学生を担当していました。

その生徒は障害のため話せないとのことでした。

授業では私が一方的に話すだけ。

でも、その生徒は従順でした。

「じゃあ、この問題を解きましょう」と言うと、すぐさま鉛筆をにぎりカリカリと。

 

双子の男子小学生も担当しました。

その子たちは最低限の発言をするだけでした。

休憩中も無表情でじっと座っているだけでした。

冗談で笑わそうとしても、私の冗談が面白くないのか、全く笑顔を見せてくれませんでした。

ただ、淡々とした授業はスムーズに進みました。

 

ジャニーズ好きで活発な小6女子も担当しました。

授業中でもいらない話をたくさんふってきて私は困っていました。

反抗期が入っていたのか、従順さがまるでありませんでした。

ある日、私の怒りは爆発し、叱責したことがありました。

その日から大人しく授業を受けていました。

しかし、陰で愚痴をこぼしていたことを別の生徒から知りました。

最終的には、中学受験が上手くいきほっとしました。

 

中学生のクラスは活発な生徒がとても目立っていました。

授業をまともに聞いてくれませんでした。

よく大声で静かにするよう求めたものです。

でも、すぐにうるさい状態に戻りました。

真面目な生徒が嫌な顔をしていました。

その子たちに申し訳ないという気持ちで、クラスを鎮めるのに私は焦っていました。

先輩講師も困り果てていました。

社員のY先生は1人の生徒を呼び出して、大声で説教したりしていました。

本当に大変な校舎だなという印象でした。

 

太平通校の生徒にも手を焼きました。

私は新人でしたから、当然なのですが。

授業中に席を立って、教室の壁と壁の間を往復して喜ぶ生徒。

すぐに横を向いて、当たり前のように私語をする生徒。

「先生になんか挨拶してやらん」と言いながらそっぽ向いて校舎に入ってくる生徒。

今の私なら、きつく叱って正そうとするでしょうが、、、。

何を言っても分かってくれなかったかもしれません。

そのためなのか、塾長も先輩講師もあまり対処しませんでした。

下手に事を大きくして、保護者からクレームがくるのを恐れていたのかもしれません。

何せ、つぶれかけの校舎でしたから。

 

時間割の面では、土曜日がとても忙しかったです。

13時から夕方ごろまで当知校、そこから車で移動して太平通校で22時まで授業。

休憩はほとんどなく、食事は車内で信号待ちのときに済ませたりしていました。

先輩講師は授業の合い間の5分くらいでおにぎりを吞み込んでいたとのことでした。

労働基準法など、そこでは通用しない世界でした。

私は授業が好きだったし、修行だとも思っていたので、つらくはありませんでした。

 

数か月が経ち、私は異動を命じられました。金山校に。

塾長が「金山は、大変だぞ。厳しいぞ。」と少し微笑んで話していたのが印象的でした。

同時に、理事長に呼ばれ、社員にしてもらえるとのことでした。

異動先の初勤務の日、金山校の塾長と対面しました。

何と、私より1歳年下の女塾長でした。

「この人が厳しい?」と不思議に思うほど、かわいらしい新塾長でした。

しかし、時間の経過とともに塾長の印象は変わっていきました。

自分にも他人にもストイックだったのです。

 

(前回からの続き)

塾長は長時間勤務を当たり前のようにしていました。

休校日も自主勤務して、生徒に補習をしたりしていました。

そういう人でしたから、最低限のことしかしない部下は嫌いなようでした。

37歳の社会の先生とは価値観が合わず、少し口論になったと耳にしました。

理事長から毎晩のように電話がかかってきて、報告を逐一行っていました。

当然のごとく、社会の先生のことも洗いざらい報告していました。

後日、社会の先生が来なくなりました。

理事長がやめさせたのでしょうか??

塾長を敵に回してはいけないと悟りました。

 

それ以降、わたしは塾長に忖度するようになってしまいました。

もちろん、無理した状態でした。

同僚の先生方も塾長に嫌われないように頑張っていたようでした。

塾長がいないときに少し愚痴を言い合ったこともありました。

そうでもしなければストレスがたまる一方だったので。

 

食生活はとても悪かったです。

塾長もそうでした。

毎回コンビニの弁当やらパンやら。

睡眠もあまりとれませんでした。

塾長もそうでした。

塾長は化粧がとれかかっていても気にしてなさそうでした。

それよりも、塾の仕事のことが一番のようで。

ワークホリックだったんでしょうね。

 

「明日は休校ですけど、わたしは小学生の受験科の子たちに補習をします。」なんて塾長が口を開けば私は恐怖でした。

「じゃあ、僕は中学生のテスト対策をします。」と言わなければいけなかったのです。休みの日はゆっくりしたいと思いながら嫌々言っていました。

「僕は疲れが溜まっているので、明日は家でゆっくりします。」なんて言ったらどうなることか・・・。社会の先生の二の舞になるかもっておびえていました。

 

受験シーズンが来ました。

中学受験する小6の塾生の応援のために各中学に出向くことになりました。

そのときの服装は、指定されたブレザーでなければいけませんでした。

当日は積雪があるほど冷え込んでいて、ブレザーの上にコートが必要でした。

しかし、コートを着てはいけないと塾長に言われ、震えながら外にいました。

悪い食生活、不十分な睡眠もたたり、私は高熱を出してしまいました。

応援の日の夜に授業があったのですが、私は教壇に立てる状態ではありませんでした。

塾長に早退の許可を求めたとき、塾長はやはりストイックでした。

「そうですか・・・そしたらその授業は誰がするのですか?」

私は唖然としていました。

 

このままでは殺される寸前までいくかもしれないと思いました。

「すみません。早く横にならないときついです。」と言ってその場を去りました。

熱は39度、、、ふとんの中で安堵感もあり、不安感もある一夜でした。

翌朝の目覚めとともに、悪夢の1日の始まりを予感しました。

塾長にどんな顔をして合えばいいんだろうか?

「昨夜はすみませんでした。今後は体調管理をしっかりします。また、できなかった授業は別の日に必ずしますから。」なんて言えば赦してもらえるだろうか?

 

悪夢の1日を覚悟して、塾長と対面。

すると、塾長は笑顔でした。

表面的には赦された感じでしたが、胸騒ぎがしてなりませんでした。

数日後、理事長に呼ばれました。

予感が的中してしまいました。

「君には期待して金山校に配属したのに残念だ。次から〇〇校へ行ってもらいます。」

やはりそうですか・・・。左遷、か??

 

〇〇校って、校舎の名前を忘れましたが、明らかに儲かっていない校舎でした。

近いうちに切り離すなんていううわさもありました。

やっぱり左遷でした。

今回の流れに、26歳の若き自分はどうも納得がいきませんでした。

体調管理なんてさせてもらえないくらいの労働環境に加え、防寒具さえ認めてもらえなかった理不尽さ。

今の時代ならハラスメントで訴えられるレベルだろうと思う。

しかし、平成10年のその当時はそんな時代ではありませんでした。

いや、その塾がブラックだっただけなのかもしれませんが。

 

左遷先ではあまり授業コマをもらえず、報酬が半減しました。

これもまた天罰を与えられたのだと悟りました。

この塾はここで終わりにして、新たな場所に移ろうと決意しました。

やめるときはやめやすかったですね。

それはとても助かりました。

 

次の塾を探すときに、1つ鮮明に覚えていることがあります。

募集先に電話で問い合わせたときのことです。

「理系科目を担当させていただけるのですか?」と尋ねたら、そこの塾長らしき人が声を荒げて「いや、誰が何を教えるのかは僕が決めるの!君は僕が言う通りに動けばいいだけ!」

おかげで面接に行く前に応募をやめることができました。

この業界、個性の強い人が多いというのは本当なんだと実感しました。

 

見つかった塾は名古屋から1時間車を走らせたところにありました

橋を渡れば三重県という愛知の外れの町でした。

地方出身者の私にとっては住みやすい場所でした。

田園風景を目の当たりにしながら徒歩で通勤していました。

そこの塾長は嫉妬深い人でした。

いろいろと予期せぬことを勉強させてもらいました。

 

(つづく)